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Thank you Kobe

The Los Angeles Lakers play the Charlotte Hornets on December 28, 2015 at Time Warner Cable Arena in Charlotte, North Carolina.
Photo by Ty Nowell/Lakers

20年前の自分に「今から20年後にあるスポーツ選手の引退を前に涙を流すことになる」と言ったとしたら、どう思っただろう。コービーの引退が迫る中、次々とあがるポッドキャストを聞いて、ひとり運転する車内で涙を拭いながらふと考えた。10年前の自分ですら、そんなことは想像しなかったと思う。

私はコービーをそんなに知らない。2006-07年シーズンに少し見るようになり翌シーズンからもう少し真面目に見始めたので、コービーを見ていた期間は彼の20年の歴史のうちの半分にも満たない。私が出会ったコービーは「24」で、すでにチャンピオンシップを3つ持っていて、またそれに近づけるチャンスを絶対に逃すまいと闘っていた。ボストンはバリバリのライバルだったし、相方はパウで、フィル・ジャクソンとの関係は良好だった。

私の当時の彼氏(現・夫)は生まれも育ちもLAで、もちろんレイカーズの、そしてコービーのファンだった。彼の誕生日プレゼントに買ったレイカーズのチケットはまだ壁に貼ってある。2007年10月4日、奇しくもユタ・ジャズとの試合だった。ステイプルズ・センターの300番台、上の方の席から意外にも良くフロアが見えることに感動したのを覚えている。隣に座った人が当時はジャズにいたカルロス・ブーザーと同じアラスカ出身で、高校生のブーザーの試合を見に行ったことがあると言ったのが今でも印象に残っている。あの日、ジャズにいた選手はもう誰一人としてユタに残っていない。あの日、レイカーズにいた選手もコービーしかいなくなってしまった。

今シーズンが始まった当初、たび重なる怪我からまたもや復帰したコービーの成績はボロボロだった。開幕と同時に発表されたESPNの選手ランキングでは93位につけられて話題になったが、いざシーズンが始まると、自分のあまりのひどさに「今の自分はリーグ200位だ」と言うほどだった。

私自身も、若手に期待を寄せていたシーズンがが思ったようなスタートをきれずモヤモヤした思いを抱えて記事を書いた。そしてその数週間後の11月24日にコービーは引退を発表した。

【引退を発表する前、開幕から5試合目でシーズン初勝利を挙げた試合の後のコービー「I bleed purple & gold」】

それからのシーズンはどこへ行ってもコービーのお別れツアーだった。先月足を運んだステイプルズでは、コービーがボールを持つたびに、コービーがベンチから客席に目線を向けるたびに、ファンが大歓声をあげた。普通のバスケの試合ではない。ベンチにいるコービーに向けて会場がコービーコールに包まれる中、コービー以外の選手が黙々とバスケをする姿は異様なものがあった。

kobe

シーズンが始まる前もコービーが引退を表明してからも、コービーがシーズンの最終戦までフロアに立っていることができるとは正直思っていなかった。それまで大きな怪我をしてこなかったコービーは2012年にアキレス腱を断裂して以来、まともにシーズンを終えることができていなかったからだ。年齢、これまでのキャリアを通してのプレータイム、近年の怪我などを考えると、またどこかが壊れてしまうのではないかと思った。引退が決まってからは笑顔でプレーすることが増え、シュートの精度も落ち、これまでのブラック・マンバを知っている人は時に「恥ずかしい」「みっともない」「こんなコービーなんて見たくない」と眉をしかめた。それでも最後のホームコートにゴールドのジャージをもう一度着て出ることができるのは、確実に「最後までやり遂げよう」というコービーの意思があってからこそ実現したことだと思う。

最後のシーズンでも、以前のマンバの片鱗が見える瞬間がいくつかあった。30得点を超えた試合は今季5試合あり、そういう試合があるたびに「まだまだできるのではないか」という意見を目にした。それでもベンチでアイスやホットパックを身体にぐるぐる巻きつけたコービーを見ると、本当に限界なんだろうと思った。4月3日にボストンと最後に対戦した試合では33分間で34点を取り、試合中もこれまでのような笑顔も少なく、久しぶりのマンバ・モードだった。宿敵セルティックスに対して、そして全身でセルティックスを倒すために闘ってきた自分への敬意のように感じた。

The Los Angeles Lakers play the Milwaukee Bucks on February 22, 2016 at BMO Harris Bradley Center in Milwaukee, Wisconsin.
Photo by Ty Nowell/Lakers

先日True Hoops のポッドキャストでコービーについて聞いたら思わず涙があふれてきた。ここ数年レイカーズの番記者を務めるBaxter Holmes氏が、自身の記事について話していた。2012年のアキレス腱の怪我に至るまでの7試合を振り返り、当時コービーがいかに全てをかけてレイカーズをプレイオフに連れて行こうとしたかが書かれている。シーズン開幕前は優勝候補とも言われたチームが上手くいかず、プレイオフ進出も危うくなったシーズン終盤、コービーは「レイカーズは必ずプレイオフに行く」と宣言をした。そしてそれを実現させるべくコーチやスタッフに止められながらもほとんど休むことなく試合に出場し続け、アキレス腱が切れるまでの7試合は合計で16分45秒間しか休まなかった。ロッカーが隣だったアントワン・ジェイミソンが、文字通り身を削るコービーを心配して声をかけてもほとんど口がきけないほど疲れ切っていた。当時34歳だったコービーは、ロッカールームでは「まるで105歳のお婆さん」のようにしか動けなかった。チームメイトには隠せなくとも、コーチ陣には自分がいかに疲れているかを打ち明けず、少しでもベンチで休ませようとするとそれを拒否し「自分が休むと言った時に休む。それまでは出続ける」と自分の意思で全てを決めていた。毎晩5時間ほど次の対戦相手のビデオを何度も巻き戻しては研究し、フロアではチームメイトに細かい指示を出して指揮を取った。タイムアウトのたびにできる限りのマッサージやトリートメントを受け、フロアに出てはさらにボロボロになって戻って来るコービーは、さながらコーナーに戻るたびに傷が増えているボクサーのようだった。

4月10日のポートランド戦では48分間全て出場し、シーズンハイの47点に加えて8リバウンド、5アシスト、4ブロック、3スティール、1ターンオーバー、という前代未聞のスタッツをたたき出した。前日にシャーロットで41分間出場した翌日だった。

そして4月12日。試合後半に空中で二人の選手に挟まれて倒れ、その数分後にはエジーリと膝をぶつけて倒れた。「どうにかしてコービーを休ませないと」とチームメイトやコーチは思うものの、それまで同様コービーを休ませることなど無理だと皆はわかっていた。試合の残り時間もわずかになった時、左へドライブしたコービーがまた倒れた。「いま足蹴った?」とコービーをガードしていたハリソン・バーンズに聞き「ノー」と返事をされるとアキレス腱が切れたことを悟った。そこでなんとコービーは、切れて上へ縮んだアキレス腱を指で下へおろそうとした。さらにサイドラインではアスレチック・トレーナーのヴィーティーが見守る中、すり足で歩いて足を試した。「もう少しもたないかな、と思って。踵で歩けば足の指先に力を入れなくて済むからできるかな、と」と当時を振り返ってコービーは笑う。「それまで死に物狂いでやってきたんだ。ここで全てが水の泡になったら冗談じゃない。始めた仕事を終わらせようと思ったんだ。」コービーはその後フリースローを2本沈め、自力でロッカーへ戻った。レイカーズは2点差でその試合に勝ち、プレイオフ進出を果たした。

それでもコービーは、アキレス腱が断裂するまで自分を酷使したことを後悔していないという。自分の限界まで挑戦し続け、できる限りの全てをやり切らずにプレイオフを逃したとしたら自分を一生許せないだろう、とコービーは言う。「壊れるまで自分をプッシュし続け、壊れたとしたらそこからまた自分を建て直さなければいけない。そこでまた自分の真価が問われる。」

これほどまでに全てをかけてコートに立った選手を、例えその全てではなくとも目撃し応援することができたことに感謝しかない。Thank you Kobe.

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